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ニート、アル中、うつなどマイナス人生を歩いてきた弁護士のブログです。これから夢実現に向けて頑張ります。基本的に1日1回以上更新します。
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 なんのために、祖父の部屋がそういう構造になっているかというのは、単純なことで、牢屋と同じ理屈だ。
 こちらが入れたいときに入れて、出してもいいときに出す。
 そのためのものだ。ただ、窓の方は内側から開けられるし、部屋は1階なので、無理にでも外に出ようと思えば出られるが、一家の家長だったというプライドがそれを許さなかったのだろう。私の記憶では、一度も祖父が窓から出たことなかったように思う。
 と、いっても普段から祖父が閉じ込められていたわけではない。比較的自由にふらふらと外に出かけていたように思う。どこに行っていたのかは今考えてもよく分からない。とにかく、祖父は酔って便所にもろくにいけない状態になることもしばしばで、大便が普通に廊下に落ちていたり、壁に塗りつけてあったりした。どこになにがあるか、家の中でも全く気が抜けなかった。
 外から帰ってきて、昼間に酒を飲んでくだを巻いたり、足の悪い祖母をいじめたりしたときに、仕事から帰ってきた父や叔父が、なぐりつけ、けり倒し、部屋に押し込んで鍵をしてしまう。まあ、多くは書かないが祖父にからむ酒とむき出しの暴力が我が家に暗い影を落としていた。
  ただ、その暴力は私たちに向かうことは決してなかった。
 今思い返しても、父から殴られた記憶は全くない。
 叔父からは、たまに殴られたが、まあ、しつけの範囲内だろう。
 祖父が手におえなくなると、酒を切るために祖父は入院した。精神病院にも何度か入院させたようだ。そのたびに実の息子である父に「もう飲みません。」と言う誓約書を書いて出てくる。もちろん、こんなものが守られるはずもない。
 飲む→殴られる→入院→誓いを立てて出てくる→飲む・・・
の繰り返し。
 
 そんな家庭に育った子どもが明るく、素直に、屈託なく育つはずもなく、私は暗くて鈍重だった。(今でもそうだが・・・)
 幼稚園で、よくいじめられて泣かされて帰ってきた。
 お遊戯、工作、かけっこ、何をやらせてもだめ。何をやるところかさえ、わからずに2年間通った。幼稚園で出てくる給食がほぼ毎日メロンパンだったことだけは覚えている。ひらがなもろくに書けるようにならず、ただ、仲間はずれというものは寂しいものだということだけは学んだ。
 私が4歳くらいのときに父が醤油の配達に見切りをつけて借金をして酒屋を始めた。まあ、時代の趨勢だろう。
 とにかく、最初の頃は貧乏だったことは覚えている。服もツギだらけだった記憶がある。
 陰気さは抜けなかったが、小学校時代は友達にも恵まれてそこそこ楽しかった。
 宿題は年に数回しかやってこない、カビパンはよく作る、身なりは小汚い、運動は何をやらせてもダメ。
 よくこんなんで、友達も遊んでくれたとは思う。まあ、子どもだから、みんなあまり気にしなかったのかもしれないが、ここから思春期にかけてはコンプレックスの塊みたいな人間になってしまった。
 とにかく、家から出たかったので、遠くの大学に行こう、それも、有名な大学に行けば、親も納得してくれるだろう、そう思っていた。中学生の時に、たまたま京都大学がテレビに出ていた。当時の学力から考えると、全くお話にならないほど、無理な願望だったが、京大なら、親も納得するだろうと、思った。
 そのころはバブル景気を迎え、実家の酒屋も大分儲かっていた時期だ。とにかく、勉強のための費用は糸目をつけず出してもらった記憶がある。塾には行かせてもらえなかったけど。(お金がなかったわけではなく、塾という存在が嫌いだったようだ。)高校に行ってからは必死で勉強し、なんとか、成績も京大に少し足りないくらいのところまでは来た。親に相談すると、学費は心配いらないから、受けろということだった。自分よりも成績がよくても、親の経済的な理由から関西や首都圏の大学を諦めた人も多かったので、これは本当に幸運だった。
 そして、平成4年に運良く京都大学法学部に合格。
 念願の一人暮らしと飲酒生活が始まる。
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